本書以探討中日人物的思想交流為主軸,針對17至20世紀在東亞海域中越境知識人的思想交流進行論述。主題有:(1)水戶藩主徳川光圀的學問形成及其與中國文人的交流(2)往來於舟山群島、越南,最後定居長崎、江戶和水戶的朱舜水之學問傳播及其影響,以及將黄檗宗的佛教文化移植到日本的隱元隆琦(1592-1673)、獨立性易(1596-1672)、在水戶創立曹洞禪宗的東皐心越(1639-1696),論述他們在東亞文明發展史的貢獻。(3)分析德川博物館藏品的內容及其出版的意義。(4)立原翠軒(1744-1823)與「中期水户學」的發展。(5)《本朝通鑑》與《大日本史》的史觀比較。(6)闡明「水户學」在德川幕末、近代黎明期的史觀演化與日本近代化發展的關連性。
本書は日中人物の思想交流を主軸とし、17世紀から20世紀にかけての東アジア海域における越境した知識人の思想交流を論述する。主なテーマは、(1)水戸藩主徳川光圀の学問形成及び中国文人との交流。(2)舟山群島、ベトナム経て最終的に長崎、江戸、水戸に定住した朱舜水の学問伝播とその影響、さらに黄檗宗の仏教を日本に移植した隠元隆琦(1592-1673)、独立性易(1596-1672)、水戸で曹洞禅を創立した東皐心越(1639-1696)禅師をめぐる東アジア文明発展史の貢献を論述すること。(3)徳川ミュージアム所蔵の資料公開とその出版の意義を分析すること。(4)立原翠軒(1744-1823)と「中期水戸学」の発展。(5)『本朝通鑑』と『大日本史』の史観の比較。(6)徳川幕末から近代への黎明期における水戸学と近代化の発展の関わりを明らかにすることである。
作者簡介:
徐興慶(じょ こうけい)
1956年生,臺灣南投縣人。東吳大學東方語文學系學士,日本九州大學大學院文學碩士、博士(1992)、日本關西大學文化交涉學(論文)博士(2012)。研究專長為中日文化交流史、近代中日思想交流史、日本文化史。主要以日本「水戶學」史觀演化為探討中心。論述中日人物的越境交流對日本「前期水戶學」、「中期水戶學」至「後期水戶學」等影響過程所衍生的東亞文明發展之關連性。現任東吳大學(端木愷校長)講座教授⁄日本語文學系專任客座教授、中國文化大學兼任特約講座教授、國立臺灣大學日本語文學系兼任教授。曾任中國文化大學校長/外語學院院長、國立臺灣大學日本語文學系教授兼系主任/所長、日本研究中心主任、日本天理大學國際文化學部客座教授、九州大學暨關西大學客座研究員、國際日本文化研究中心外國人研究員、京都大學人文科學研究所客座教授、國立臺灣大學人文社會高等研究院特約研究員、北京清華大學客座教授、早稻田大學東亞國際關係研究所招聘研究員等。
1956年に台湾・南投県生まれ。東呉大学東方語文学系卒業、九州大学大学院修士、文学博士(1992)、関西大学文化交渉学(論文)博士(2012)。専門は日中文化交流史、近代日中思想交流史、日本文化史。主に日本の「水戸学」における史観の変遷を研究中心としている。日中の人物による越境交流が、日本の「前期水戸学」、「中期水戸学」、「後期水戸学」に至るまで与えた影響の過程から派生する東アジア文明の発展との関連性を論述する。現職:東呉大学(端木愷校長)講座教授⁄日本語文学系專任客座教授、台湾・中国文化大学兼任特約講座教授、台湾大学日本語文学系兼任教授。経歴:台湾・中国文化大学校長/外語學院院長、台湾大学日本語文学系教授兼系主任/所長、日本研究センター長、日本天理大学国際文化学部客座教授、九州大学、關西大学客座研究員、国際日本文化研究センター外国人研究員、京都大学人文科学研究所客座教授、台湾大学人文社會高等研究院特約研究員、北京清華大学客員教授、早稲田大学東アジア国際関係研究所招聘研究員等。
章節試閱
序章 越境する日中文化、思想交流の序説(抜粋)
17世紀に入って、海洋大国のイギリスは東インド会社を拠点としてインドへの進出を始めた。そしてオランダは、インドネシア、ジャワのバタビア(Batavia)において台湾及び日本への進出を企てていた。それ以後、西洋諸国の勢力が東アジア海域に介入するという現象が出現した。中国では明清の戦いによって、満族が中国を統治するようになり、1644年に明朝が滅ぼされたが、東アジア海域においては鄭芝龍、鄭成功の一族や魯王は南明政権を掲げ、その勢力をふるい、満清政権に抵抗を続けていた。17世紀の日中文化交流の歴史を振りかえってみると、二つの特殊な空間がみられる。一つは中国の明清交替の戦乱の際、一部の中国文人は「満清の米は食さず」とし、次から次へと海をさまよい日本へ渡り避難した。これら棄国の遺民の多くは姓名を隠して、政治を捨て仏門に入り、また儒学者も少数ながら日本へ避難し、その結果儒教も伝わり広まるなど、一人一人が悲愴な歴史を背負うことになったことである。一方、徳川幕府は儒教を広めようとし、一方で仏教を重視しつつ、明清の中国の学問としての儒教を取り入れることにより、徳川社会は、まるで「域外の漢学」の大本営となっていた。この二つの時代背景は日中文化交流の特殊性を織りなし、また人的な思想交流の序幕を開いたのである。
明清の戦乱および日本の鎖国の時代背景の中において、1654年、63歳で長崎の唐寺興福寺の招きにより日本に渡航し、のちに京都宇治の萬福寺を開いて日本の黄檗宗の開祖となった隠元隆琦(1592-1673)は臨済禅の布教に努めた。同じ時期に浙江余姚出身の朱舜水(1600-1682)は明朝再興のため、貿易活動を営みながら軍事資金の調達を図り、舟山群島、長崎、安南を行き来していた。朱舜水は一時的にアモイ、台湾に拠った鄭成功を支援し、1659年7月の南京攻略戦にも参加しようとしていた。
他方、徳川幕府は長崎を唯一の窓口として対外に開放し、中国及びオランダと交易を行ない、東西両洋の世界の外来文化に間接的に接触するようになった。日本は中国船を招致するため、朱印状を発行し、長崎に来航した唐船は年間70から80隻に及んだ。19世紀までに長崎は、日中の貿易活動と文化交流の場として人的往来の活気を呈していた。近世の日中両国は、それぞれ閉鎖された社会を形成しており、長崎の貿易、文化活動において、両国の人物往来の実態がどのようなものであったのか重要視されつつある。
本書は日中人物の思想交流史を軸にし、17世紀から20世紀の東アジア社会の越境した知識人を取り上げる。(1)アジア海域のアモイ、台湾、金門で行き来した鄭成功(1624-1662)、そして舟山群島、ベトナム、長崎、江戸、水戸などを舞台に活躍した朱舜水、さらに黄檗宗の仏教を日本に移植した隠元、独立性易(1596-1672)、曹洞禅宗を水戸に根付かせた心越禅師(1639-1696)をめぐる東アジア文明発展史の実態を分析する。(2)徳川ミュージアム所蔵の資料公開とその出版の意義を語る。(3)立原翠軒と「中期水戸学」の発展。(4)『本朝通鑑』と『大日本史』の歴史観を論じる。(5)徳川幕末から近代への黎明期の水戸学と近代日本の発展の関わりを明らかにすることを目的とする。
一、日本、中国と台湾の英雄∕鄭成功
近世日中貿易関係史を語るには、日本とゆかりの深い日中混血で東アジアの国民的英雄、鄭成功を無視することはできない。鄭成功の父は、明朝の福建省泉州南安県石井郷の豪族、鄭氏の第十一代に当たる鄭芝龍(1604-1661)で、1608年18歳の時、私貿易に従事するため初めて日本へ渡り、のちに日明貿易の主役となった。九州平戸の松浦隆信(1529-1599)は、従来日中貿易を営む関係で鄭芝龍と親しく交遊していた。鄭芝龍はその後、平戸川内浦千里ヶ浜に移り住み、1623年平戸藩士の田川七左衛門の娘マツと結婚し、1624年9月に鄭成功が平戸の千里ヶ浜で誕生した。現在、当地は「鄭成功児誕石」の歴史名所として知られている。
(一)鄭氏一族と「日本乞師」
鄭成功の幼名は福松といい、六歳まで学問と剣術を平戸で学んだが、1631年に7歳の幼さで母と2歳の弟田川七左衛門に別れを告げ、単身で中国大陸にいる父鄭芝龍のもとに帰り、名を森と改めた。そして、南京儒者の銭謙益(1582-1664)に学び、厳しい教育もあって、文武に優れた青年となった。1644年に中国政権の明清交代後、華中・華南では、明の皇族を擁立して「反清復明」を唱えて清への抵抗と明の再興を目指す南明勢力が形成された。一方、西洋の勢力が徐々に東洋に力を及ぼすなか、日本では、織田信長(1534-1582)や豊臣秀吉(1536-1598)が相次いで政権を握って栄えた安土桃山時代が終わりを告げたばかりの時期であった。それにかわって政権を得た徳川幕府は、西洋勢力の侵入を恐れて、キリスト教の禁止や鎖国の政策を採った。そのため徳川幕府は長崎を唯一の対外窓口として開放し、中国およびオランダの船舶の来航を認め、貿易活動の進行を統制しながらも、東西の二つの世界と間接的に接触していた。
鄭氏一族は相当の軍事力を保有していた徳川幕府に軍事支援を求め、連合して清軍を駆逐する事によって明朝再興を果たそうとした。石原道博の研究によると、1645年に鄭芝龍は相次いで日本に軍隊派遣を要請する「日本乞師」の書簡や使者を送ったという。鄭芝龍が日本に送った「乞師状」は計8通がある。その内訳は日本の「正京天皇」宛てが2通、「上将軍」宛てが3通、「長崎王(長崎奉行)」宛てが3通で、五千の兵を借りたいと申し出ている。この「乞師状」は幕府が外国情報を記録した『華夷変態』に収録されている。鄭芝龍の「乞師状」に接し、幕府は、まず大学頭林羅山(1583-1675)にそれを読ませ、老中たちは「数日評議あり、尾張紀伊の両大納言、水戸中納言(頼房)も登場、右之書簡春斎これを読む」と記している。すでに鎖国体制に入っていた徳川幕府は数日に亘り、真剣に「評議」を重ねたすえ、最後に22条の「此度難問」の「上意答覆書」を作成し、九州の大名を通じて南明の「乞師」依頼を断っている。しかし、軍事的な支援には否定的とはいうものの、貿易などの形式で日本刀などの武器や物資の調達を許すことはあった。
鄭成功は、南明政権の代表者として、1662年台湾で病逝するまで、長い間清朝と戦っていた。1645年8月、鄭氏父子は福州で明太祖の九世の孫である唐王隆武帝を擁立した。鄭成功は唐王から忠孝伯という栄を受け、御営中軍都督、招討大将軍に任ぜられ、明の国姓の朱を賜った上、成功と改名した。国姓爺の呼名はこれにもとづくものである。当時22歳でこの栄誉に浴した鄭成功は大いに感激し、一生を明朝に捧げることにした。1646年、鄭成功は父芝龍の変節降清及び明君主への忠義保全のため自殺した母翁氏(田川氏は1645年10月に日本から福州に渡った)の二重のショックに耐えながら、新たに反清復明の決意を誓った。当時、明朝の遺臣が数多く日本に渡航し、江戸幕府の支援を求め続けた。鄭成功も使臣の張光啓を日本借兵に赴かせたり、明末渡日儒者の朱舜水にその依頼書翰を送ったりしたこともあった。
1661年4月29日、鄭成功の軍隊は福建のアモイから澎湖島を経て、台湾の台南の鹿耳門(今の台南台江内海)に上陸し、オランダ軍との七カ月間の交戦で、要塞のプロビデンシャ城(今の赤嵌樓)とゼーランディア城を落とし、台湾の38年間(1624-1662)に亙るオランダ統治時代に終止符を打った。鄭成功は台湾を東都と改称し、台南を承天府として政治の中心とし、天興(現在の嘉義)、万年(現在の高雄)両県を設け、はじめて施政につとめた。一方、満清政権は鄭氏一族の東アジア海域における勢力拡大を阻むため、1661年8月から山東以南の沿海居民に内陸の25キロの遷移を命じる「遷海(界)令」を頒布したが、これは23年後の1683年南明政権が完全に滅亡し、台湾を中国の帰属とするまで続いた。「遷海令」の目的は反清勢力を封鎖するためであったが、その効果はあまりなく、むしろ中国沿海各省、特に福建、広東の経済成長に大きな被害をもたらすばかりであった。鄭成功は反清復明の志が叶わないままに、惜しくも1662年6月8日に39歳の若さで世を去った。2012年、鄭成功去逝350周年を迎えた今日でも、台、日、中、韓の学界においては、彼を政治的、歴史的重要人物と据え、南明史、オランダと清領をめぐる台湾史における位置づけや日中貿易関係史の役割、さらに文学の視野から「国姓爺」を読むなど、さまざまな視野から研究がなされている。
(二)隠元隆崎禅師と鄭成功
隠元隆崎は明末清初の黄檗禅宗の僧。福建省福清県の生まれで、その俗姓は林である。江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融(1601-1668)が、隠元を日本に招請した。渡日当時、中国は明末清初の交替期であったことから、この騒乱を避けて来日したとされているが、黄檗山萬福寺の文華殿に残されている隠元と鄭成功の往来書簡や記録等によると、二人の間柄はとても深いものと判明している。その事実として、隠元は1654年6月21日にアモイで鄭成功が仕立てた船に随従者30人とともに乗り込み、7月5日に長崎に着岸し、唐寺の興福寺に入った。隠元が入った興福寺には、明朝禅学の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。1655年、妙心寺元住持の龍渓性潜(1602-1670)の懇請により、摂津(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、中国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め禅学の普及に奔走し、1658年には、独立性易は書記として隠元とともに江戸幕府四代将軍・徳川家綱(1641-1680)と会見した。その結果、隠元は1660年、京都の宇治に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、故郷の中国福清と同名の「黄檗山萬福寺」と名付けた。これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となり、臨済正宗黄檗派を名乗り、その『黄檗清規』により自ら一派を形成する方向に発展していった。ちなみに、黄檗寺院は全国各地に開設され、その数は1745年には897ケ寺で、全国51ケ国に存在した。隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人、各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。黄檗禅風の弘法を日本に伝播して、優れた業績を残した。彼は萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、1664年9月に後席は弟子の木庵性瑫(1611-1684)に移譲し、82歳で松隠堂に退いた。1673年4月2日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された。1917年には大正天皇より「真空大師」が、1972年昭和天皇より「華光大師」を敕封され、以降計7回に亙って日本の天皇から加諡されている。7回目は2020年に令和天皇から「厳統大師」を下賜されている。
(三)隠元と黄檗僧の「唐様」
江戸時代の書は、平安時代以来伝統的な書の流れをひく「和様」と、中国の明代を主に各時代の書法の影響を受けた「唐様」とに大別される。和様の書は朝廷で用いられたほか、幕府の公式書体としても用いられ、それは庶民にも及び江戸時代を通じて日常の場で幅広く用いられる。一方、黄檗僧や学者などによってもたらされた唐様の書は、幕府の儒学奨励政策が漢学の隆盛につながり、漢籍の内容だけではなく書風にも関心が高まったことを背景に、文人墨客、儒者、僧、武士階級など知識層を中心に広まった。
序章 越境する日中文化、思想交流の序説(抜粋)
17世紀に入って、海洋大国のイギリスは東インド会社を拠点としてインドへの進出を始めた。そしてオランダは、インドネシア、ジャワのバタビア(Batavia)において台湾及び日本への進出を企てていた。それ以後、西洋諸国の勢力が東アジア海域に介入するという現象が出現した。中国では明清の戦いによって、満族が中国を統治するようになり、1644年に明朝が滅ぼされたが、東アジア海域においては鄭芝龍、鄭成功の一族や魯王は南明政権を掲げ、その勢力をふるい、満清政権に抵抗を続けていた。17世紀の日中文...
目錄
序章 越境する日中文化、思想交流の序説
一、日本、中国と台湾の英雄∕鄭成功
二、日本における独立性易の文化活動
三、朱舜水の研究―長崎、柳川から水戸へ
四、徳川ミュージアム所蔵の資料公開とその出版の意義
五、『本朝通鑑』と『大日本史』の歴史観
六、水戸学と近代日本の発展
第一章 徳川光圀の学問形成と中国文人の交流
一、徳川光圀と水戸藩の文教事業
二、徳川光圀の古学と神道の教養
三、水戸藩の漢学教育と寺社改革政策
四、徳川光圀の大義名分と平民思想
五、徳川光圀と中国文人の交流
六、徳川光圀に関する文献の解釈
おわりに
第二章 東アジアの視野から見た朱舜水研究
はじめに
一、朱舜水全集の刊行とその内容
二、朱舜水の研究史
三、問題意識―学術研究と政治的訴求の狭間で
おわりに
第三章 朱舜水の思想と水戸藩の礼制実践
はじめに
一、徳川前期における儒教の発展の「雑学性」
二、朱舜水と水戸藩における儒教の発展
おわりに
第四章 朱舜水思想の中の孔子形象とその伝播
はじめに
一、学問の伝播より見た、朱舜水における孔子の形象
二、朱舜水の「孔子賛」と「聖像賛」
三、朱舜水の『学宮図説』と「学校議」
おわりに
第五章 思想転換から見た徳川光圀、心越禅師と朱舜水
はじめに
一、心越禅師日本渡航の背景
二、心越禅師の抗清活動
三、徳川光圀と心越禅師の思想比較
四、曹洞禅学の日本文化への影響
五、心越、朱舜水、今井弘済の仏教観
おわりに
第六章 立原翠軒と「中期水戸学」の発展
はじめに
一、水戸学と古学との関係
二、水戸藩における徂徠学の萌芽
三、立原翠軒と「中期水戸学」の再興
四、立原翠軒と藤田幽谷の思想相違
五、近代における水戸学の意義
第七章 『本朝通鑑』及『大日本史』歴史観の変遷
はじめに
一、『本朝編年録』、『本朝通鑑』編修の起源と背景
二、『本朝通鑑』の儒教思想の内容
三、『大日本史』の編纂背景とその中核史観
おわりに
第八章 水戸藩と日本の近代化
はじめに
一、西方勢力の東漸と水戸藩海防政策の転換と
二、水戸藩の軍事教育と近代化建設と
三、徳川斉昭の西洋知識の摂取
四、徳川ミュージアム所蔵の蘭学、西学関連文献
五、水戸学と明治維新と
結論
一、17~19世紀の越境的な日中文化交流の背景と特殊性
二、朱舜水の思想とその日本社会への影響
三、朱舜水の教育思想と「聖学」の実践
四、心越と朱舜水の日本文化への影響
五、立原翠軒と「中期水戸学」の再構築
六、『本朝通鑑』及び『大日本史』歴史観の変遷
七、水戸藩と日本の近代化
参考文献
初出一覧
人物索引
事項索引
序章 越境する日中文化、思想交流の序説
一、日本、中国と台湾の英雄∕鄭成功
二、日本における独立性易の文化活動
三、朱舜水の研究―長崎、柳川から水戸へ
四、徳川ミュージアム所蔵の資料公開とその出版の意義
五、『本朝通鑑』と『大日本史』の歴史観
六、水戸学と近代日本の発展
第一章 徳川光圀の学問形成と中国文人の交流
一、徳川光圀と水戸藩の文教事業
二、徳川光圀の古学と神道の教養
三、水戸藩の漢学教育と寺社改革政策
四、徳川光圀の大義名分と平民思想
五、徳川光圀と中国文人の交流
六、徳川光圀に関する文献の解釈
おわりに
第二章 東アジ...